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2011年9月20日火曜日

9月19日

今日も、私の運転でママとばあちゃんを乗せて病院へ行きました。

一度行っただけで、もう地図もみないで、だいぶ早く辿り着けました^^
運転にはけっこう自信がついてきました。
この年になって、成長を実感できるって、久々で嬉しい(笑)
ママたちも楽で助かると、お役にたてて一石二鳥!


行っても数時間はずーっと寝てたので私たちも特にすることがなく。
でも聞いていたようには暴れないし、今日はおとなしいんだなと思ってました。

夕方、トイレに行きたいと起きて、ナースコールはしましたがちゃんと、車いすなしで歩きました!(点滴のスタンドにつかまって、ナースに支えられて、ゆっくりゆっくり、、の状態ですが。)

ママの支えで20日弱ぶりにシャワーも浴びました!

歯も磨きました!

ほとんど食べれなかったのに、持って行ったおまんじゅうも食べました!

きみまろのテープ(文字通り、カセットテープ!)も、うるさがらずに聞いて笑います!

ばーちゃんが横で詩吟をうたい始めると、一緒に大きな声で歌いだしました!プチショーのようで、拍手して喜んでいました^^

ずっと寝たきりだったのが、けっこう長いこと座っていました!

ご飯も全部きれいに食べました!

声も笑顔も出るようになって、よく喋りました!


看護婦さんも珍しいパパの上機嫌な姿に笑顔で喜んでくれました。


看護婦さんに、
「今日はね、大好きな家族がいっぱいきてくれたから嬉しいんですよ」
なんて言っていて、なんか泣けました。。


先生から、外泊はダメだけど、外出はして気分転換したほうがいいですね、と言われていたので、「次の週末には浜離宮に行こう。」と言ったら「おお、行こう」と笑顔。

私たちはとっても嬉しい気持ちで病院を後にしました^^


今日は敬老の日。
帰り道、3人で食事をし、ばあちゃんの話をいっぱい聞いて、さすが人生の先輩、私もこういう心持で毎日を生きたいなぁと、常々思う気持ちを再確認しながら、実践はできておらずとも考え方にこれだけ共感できるということは、私はママよりばあちゃんに似ているのかもなぁと、改めて思いました^^

年配の方、お年寄りは、だてに人生長く生きてるわけじゃないです。
その人生からはいっぱい学ぶことがあります。
大事にしないとですね!





ところで詩吟の「武田節」という歌の歌詞が、まさにパパの心境なのだと、ばあちゃんがしみじみ言っていたので歌詞を探して印刷してあげました。
「これが死に逝くパパの心境なんよ、よく覚えとき。」

私には難しい気もしますが、ここに記録しとくことにします。


甲斐の山々 陽に映えて
われ出陣に うれいなし
おのおの馬は 飼いたるや
妻子(つまこ)につつが あらざるや
あらざるや

祖霊(それい)まします この山河
敵にふませて なるものか
人は石垣 人は城
情けは味方 仇(あだ)は敵
仇は敵

《詩吟》
疾如風(ときことかぜのごとく)
徐如林(しずかなることはやしのごとく)
侵掠如火(しんりゃくすることひのごとく)
不動如山(うごかざることやまのごとし)

つつじケ崎の 月さやか
うたげを尽くせ 明日よりは
おのおの京を めざしつつ
雲と興(おこ)れや 武田武士
武田武士



恐怖

入院してからのパパは10日以上、

吐き気とめまいに悩まされ
ほぼ寝たきり
食事も水分もほとんどとらず
目もほとんど開けず
しゃべることもせず
「夜が眠れなくて辛い」と訴え
部屋にあるトイレに行くにも車いす、パンツも看護婦さんに下してもらっている

こんな状態だったので、ママが行ってもほぼ寝たっきりで何もできず、毎日通うのでまた疲れがたまってしまっていました。

さらに

看護婦さんや先生にずっと愚痴を言うそうで
「みんなわしをだましている」
「ウソばっかり言う」
ママとばーちゃんが横で小さい声でしゃべっているとナースコールして「あの人たちがうるさいんですよ」と長々と文句。。

あげく、最近では、あんなに弱弱しかったのにすぐに大声を出して奇声をあげたり恐ろしい表情で睨みつけたり、、

ママまでも指差して「あんたは敵だ!」
「どいつもこいつもみんな敵だ!」
「家に帰る、もうこんなところは戻ってこん!」

と、ナースステーションからびっくりして飛んでくるぐらいの大声で叫び、大暴れするというのです。。

ひとしきり暴れたら、また寝たきりで動かない状態。
ママには

「もう帰れ」
「毎日来んでいい!」
手を触ろうものならママの腕をがしっっとすごい力でつかんで睨みつけるそうです。

かといって、ママが昼過ぎまで姿を見せなければ
「まだ来んのか?!」
「遅いぞ!」

と吠えていると、病院からわざわざ電話がかかってきます。

毎日通うママは翻弄され、疲れてきて、病院に行こうと準備をするも身体がつらいと悲鳴をあげているのでしょう、結局行けなかったり、、

決して見捨てるわけではないですが、今のパパは病気がそうさせているのだと、受け入れないといけないと、思う。

無理はしないで、行けない時はしょうがないのだから先生たちにお願いするしかないと、ばーちゃんも私も叔父もみんなでママに言うのですが、「パパがかわいそう」と、眉をしかめながら一点を見つめ、言います。「どうしたらえんかなぁ、、、」



パパが救急車で運ばれて、手術して、新たにがんが見つかって、また辛い治療が始まって、、その時に言った一言が忘れられません。

「わしは楽になれると思って来たのに、、こんなはずじゃなかったんじゃがなぁ、、」

病院へ来る前よりよっぽどひどい状態となってしまったことを、受け止めきれないでいたのです。

今の、悲しいほど変わりきってしまったパパは、そのことが怒りとなってパパのすべてを支配してしまっているかのようです。
腫瘍のせいなのか、これまでの人生に納得できず悔やんでいて怒りの塊となってしまったのか、、
どちらにしろ、本人も周りも苦しいことは確かです。。



その日がいつ来るかいつ来るか、と怯え、いろんな症状に悩まされながら後退したり好転したり、それでもなんとか普通の生活を送っていた、でもそれがもう1年以上も続いていたのです。
なんとなく、その生活がまだまだ続くような気もしていたと思います。

2年という月日は命にしては短すぎる。

でも闘病生活というのは 患者本人にも、その家族にとっても、この1年半は精神的、身体的な負担が続くには長かったようにも思います。。




人間いずれは死ぬ、とわかってはいても、健康な人には実感としてはどうしても感じられないものです。
それを、病気になって「宣告」という形でタイムリミットを突き付けられたのです。

脳梗塞や災害、事故などで突然命を奪われるのも本当に不幸です。
でも数か月、数年という宣告を受けてその間恐怖や苦しみと戦い続けるのもまた 計り知れない不幸だと思います。。

パパは、いつ逝ってもいいんだ、戦うことを諦めないだけ、、というようなことを言っていました。

それでも、、やはり、死というものは受け入れがたいのです。
じわじわとくるものならさらに、、
これほどまでに人間をまったく変えてしまう、恐怖なのです。。

死というものの恐ろしさを、目の当たりにしているような気がします。

怒鳴ったり罵倒することで少しでも発散できるのなら、私たちはそばでひたすら見守るしかないと、、思ってます。





パパがここまでひどくなって、今、残される私たちには未来があるのだということを、今さらのように強く感じました。


もしかしたら、どちらかというと感受性が強すぎ、弱いところのある私たちが、「自分の死」「親の死」というものを受け入れるために、必要な時間、経験だったのかもしれないと、思うようになりました。


できることを、空振りしながらも、それぞれが必死でやってきました。
思い出をなるべく作ろうと、温泉行ったり、香港や韓国まで行ったり、段々やらなくなっていた家族そろっての誕生日会やったり、、
パパはもともと広島の人ですが、遠くから近くから人が会いに来てくれるので、級友や親戚にも会えました。
疎遠になっていて長年気がかりだった、育ての親のような方とも連絡をとることができました。

家族で、今まで過ごしたことのないような、良くも悪くも濃密な時間を過ごし、たくさんたくさん話しをしました。

死について、親と子というものについて、夫婦について、人生について、そして生きるうえでどうありたいかについて、時間をかけて考えさせられました。
悟るには、1年半は短いですが、、



今まではその時その時のパパの状態に一喜一憂、辛い現実を生きているという哀しみが常に心のどこかを覆い、どこか暗く、心の余裕というものがあまりありませんでした。

でもこれからも生きるママも私たちも、一緒になって潰れるわけにはいかないのです。

ここへきて実はやっと、少しずつ、現実を受け入れられるようになってきたように思います。。

パパが安心して、じいちゃんのように、眠ったかのように次の世界へ旅だてられるように、残る私たちは見守り、強くなって、しっかり生きていなければ。そう、思います。




2011年9月5日月曜日

病気は自分で見つけるもの


今年の2月に がんセンターには見放されていると思ったママが
食事療法に頼るしかないと、西台クリニックというところへパパを連れていき、これまで数回通ってきました。(結局、食事内容を最初にアドバイスされたくらいですが。)


「ガンの食事療法」、「今あるガンが消えていく食事」といった本を多数出している済陽高穂先生のいるところです。


その時に撮った全身のPET画像をママが持ってきて、「これ見て。この頃からわかってたんやね、、」と言ったので見てみると、確かに今回がんセンターで言われた、別場所にガンが見つかった、と言われた尿管、大動脈などに何か影があり、矢印がついて、「異常あり、ただし何かは不明」と言うようなことが書かれているではありませんか!!


その場で済陽先生はがんセンターの担当医(O先生より上の、N先生。執刀医)へ直接電話してママの目の前で伝えていたし、西台クリニックでもらった検査結果やカルテは全て先生へ渡してありました。


それなのに、、何も言われませんでした。


そういえば、パパの尿結石やらなんだかんだで辛がっていても 町医者で見てもらってくださいとしか言われなかったから、なんで病院なのに見てくれないんだとブツブツ言って、不安ながらもちびちびと町医者に通うしかなく、一向に良くならず、困っていました。


なぜならここはガンセンターであって、「癌なのか何なのか」 を検査するところではなく、他で癌と診断された患者を紹介されて初めて受付、治療するという特殊な病院だから、という理由だと説明されて、その時はわかったようなわからないような、、と腑に落ちなかったのですが、今になってようやくその意味がわかりました、、、


つまり今ある不調が癌かどうか何なのか、他で診察してもらわなければいけなかったのです。
町医者なんかではなく、総合病院(うちの町の総合病院は全く当てになりませんが、、)や大学病院に行っていれば、きっと早期に見つけてくれてたかもしれないのです。
そうして初めて、また紹介状を書いてもらい、がんセンターでまともにとりあってくれていたのでしょう。


でも私たち素人にがんかどうかなんて最初から疑う知識なんてありません。。
日頃から通うには 大きな病院の方がいいのかなと思ってしまいました。(うちからじゃ近くになくて、大変、、泣)




パパ方のおじいちゃん(病院通いはしているものの元気)がよく言っていたそうです。




「病気は自分で見つけにゃならんのじゃ。医者はちっとも当てにならん。」




その意味が今、すとーんっとお腹に落ちてきました。


その通りだね。。。






でも、かたや、あまりに神経質になっていると知らなくてよかった病気まで見つかっちゃったり


何か悪いものが見つかってしまったらどうしようという不安に無駄にさいなまれてほんとに病気になっちゃったり


良し悪しですね。。




自分の性格上、どうするのが一番自分にとって良いか、考えておく必要があるのかもしれません。

2011年9月3日土曜日

再発どころか。




最近急に めっきり動かなくなり ほぼ寝たっきりだったパパ。

先日から、急に、おしっこが出にくくなって、血が出るようになったと言っていた。

おしっこ出したくても出ないって辛いよね、、
食事もできなくなるし、、

丸一日出なかった日の、翌日の早朝。

私は前日寝るのがべらぼうに遅く、眠りについてから2時間後の朝5時半、起こされ、10分後には救急車に乗っていました。

パパが救急車を呼んだのです。

もっと早くから起きてトイレを頑張っていたパパが、おしっこを出にくくしていたであろう血の塊がボタっと出たのを見て、自分でただならぬ事態を察知し自分でがんセンターと119に電話して手配していたのです!

すごい、いつも思うけど、普段は弱弱弱しくてゆっっくりなのにいざという時の行動はしっかりしているし、早い。。

救急車が着いたらすぐに身一つで乗り込んで、私と母待ち状態。

私とパパはボーゼンとしてました。
ママは涙ぐみながら不安そうに、ずっとパパを見つめていました。
表情のないパパもときおり、ママを見て また天井を仰ぎます。

こんな時、ほんとなんて言って良いのかわかりません。


それにしてもすごい揺れる。。パパが横たわっている担架なんて、もっと揺れてる。
そしてピーポーがなんせ真上なので、実に騒々しい。
乗り物酔いしやすい私とパパは、「酔いそう、、」と青ざめてました。

普段タクシーで4、50分くらいかかるところを30分で到着。

救急センターに到着してしばらく後、勢いあまって自尿がでました。
450gもの、どす黒いほどの、まっっ赤な血、、いや、尿、、。

とりあえず出たので、ものすごく安心してましたが
血栓がある限りまた同じことの繰り返しです。

とりあえず尿管に太めの管を入れて詰まらないような処置をされました。

が、この管が、本当に痛いのだそうです。
想像しただけでも痛いけど、本人の痛がりようは、半端じゃありません。。

男性は女性より、特に有る程度の年齢を超えた方は、やはり相当、、痛がるそうです。。

この管を入れたことのある女性の先輩は、すごい痛い、すぐにでもとってほしい、そんな状態が続くからすごくつらかった、と。。
男性の痛がり、特に痛いの嫌いなパパにとっての痛みは、想像もできません。。

泌尿器科の病棟へ移りました。16Fで、以前いた脳外科の17Fと同じつくりです。
またここに戻ってきたな、、と複雑な気持ちでした。懐かしくもあり、戻ってきちゃいけないのに、、と思う気持ちもあり。

医師も看護師の方たちも、あれこれ手はつくすけれども痛みは取ってあげられず、ぐったりしたその状態でやれレントゲンだやれMRIだ、それでもわかんないからやれCTだと、午前中はひっきりなしに誰かが来てはパパを起こしたり寝かしたり、どっか連れてったと思ったら急に車いすで戻ってきたり。
いつのまにかゆかた(病院用のパジャマ)に着替えていたり。

お昼を回る頃にはパパはミイラのような放心、抜け殻状態でもはや喋る気力も目をあける気力もない状態でした。

私はずっとパパのベッドに突っ伏したり、しばらくいない間はベッドに入り込んで寝ていたり、とにかく朦朧としていてひたすらフラフラしてました。
うろうろしてタイミングを外してばかりのママに代わって看護婦さんや医者の話を聞き、サインをし、寝ころがって、の繰り返し。

CT後、膀胱に血の塊があるからとにかくその止血をする手術をしたほうが良いということになり、説明を受け、あれよという間に手術室へ連れていかれました。

全身麻酔をして、尿道から内視鏡を入れて、膀胱内部を見つつ血と塊を出し、出血している部分を焼いてふさぐ。

これが約1時間。

終わるまで、休憩所や待合室で少しだけ仮眠。
4時半ごろ、本当に約1時間でPHSが鳴り、パパのもとへ。
手術(止血)はとりあえず成功したそうで、真っ赤なおしっこや、詰まることももうなさそうです。ほんとによかった!


もうろうとしているパパに、頑張ったね!と声をかけ、麻酔がまだ効いているし、かなり疲れてるはずだから、今日は私たちも安心して帰ろうということになりました。
ご飯食べて帰ったらもう6時半。丸々半日かかったんだ!
すごい疲れて、でも半ば興奮状態でもいたかもしれません。

あわただしい一日だったけど、とりあえずパパの苦痛が一つ解決して良かったなと思って深い眠りにつきました。



翌日。



午後、ママが電話してきました。

「あのね、癌が見つかってね、尿管癌だって。明日5時に家族を呼んでくださいって。来れる?」

あぁ、、、
鼓動がちょっと早くなり、思わずすぐ尿管がんを調べた。
余命、平均1~3年。

そうか、、、、、。



会社帰りに病院寄って、吐き気とかめまいがすると言ってまだ何も食べていませんでした。
パパの弟さんも来てくれて、でもほとんど動きもしないし喋りませんでした。

私たちが帰るというと、「そんな寂しいこと言うなよ、、」「昨日は全然眠れなくて、寂しかったぁ、、、」

なんて言うのでママは思わず戻ってきて「じゃもうちょっと居ようかね」と言って手を握り、いっこうに帰れません^^;

パパはまだ、新たな癌が見つかったとは聞いていないけど、先が短いことを 感じとっているのでしょう。。



翌日、午後半休をとって病院へ。
主治医のO先生は忙しく、結局話を聞いたのは6時を回ってからでした。

パパを車いすに乗せて、脳外科担当のO先生から聞いたのは予想もしていなかった言葉。
まとめて言うと、、


「一難去ってまた一難で本当に大変なんですが、尿管と大動脈に病変が見つかりました。尿管癌です。大動脈へ転移したようです。
腎臓の方にも小さい癌があります。これは進行が遅いのでしばらくはいじらないでおきましょう。
さらに、耳の後ろのあたり、小脳にも新たな腫瘍が見つかりました。」

?!


なんということ、パパの身体は、これほどまでに蝕まれていたのです。
運動しないと筋肉が衰えちゃうよ、としつこく言っても、必要以外はほぼ寝たっきりだった最近のパパ。
布団から起き上がるのも戻ってきて横になるのもかなり時間がかかってたパパ。
それでも少し前まではデイケアセンターにも行って、がんセンターにも来ていたのに。

身体の中ではこんな恐ろしいことが起こっていたんだね、、

そう思うと、かわいそうでしょうがなくて、熱いものがこみあげてきます。


この小脳にできた癌が性質が悪いそうで、
余命3~6か月とのこと。。
先生はいつも短めに言うけれど、年末を迎えられるかどうか。。

泌尿器科の先生ともお話して、尿管がんは年単位だけれどもこの脳腫瘍は数か月単位でとても早く進行するため、今最優先すべきは脳の治療ということで、アバスチンはもう中止。
なんと、新しい腫瘍にはまた、側頭葉の腫瘍で最初に行った、放射線+化学治療(テモダール)という方法しかないそうなのです。

振り出しにもどった感否めず、、。

これも、延命にとどまる程度、ただし何も治療しなければ本当に進行は早いそう。。
尿管がんのほうは、とにかく出血をまたしないように処置をする必要があるということで、こちらも放射線治療になるそうです。
おそらく同時にできるはずとのこと。


私たちはただただ黙って聞いていました。
もう、私たちが決められることではないなと、思ったのです。

もう、延命だけというならば、痛みや苦しみからはせめて解放させてあげたい。でも何もしないわけには、、

治療を始めたら、また、放射線と抗がん剤の副作用に悩まされる日々が続いてしまう。頭がガビガビになり、毛も抜け、常に吐き気に悩まされ、便秘にも苦しむ。

ここまできたら、本人の意思次第だ、、

そんなことを思いながらパパの方をみると、つながった点滴の管を指にぐるぐる巻きつけながら落ち着きがなく、目も焦点が定まらず、大きな貧乏ゆすりをはじめ、何か言いたげでも言葉が出ない、とても動揺を隠せないでいるようでした。
そんな姿を見るのは 辛かったです。。

でもしばらくして、パパは、大きな声をだして、「うん、やる、やります」と言いました。

副作用は嫌だけど、治療をしなくてもどうせ苦しいしすぐにお陀仏になってしまう、自分はがんばって治療を受けて、少しでも長生きをして見せる、と。


私たちは うん、うん、と大きくうなずき、皆でパパの意思を共有し、お願いします、と先生方に託しました。



あの超高額な未承認薬を使えなくなり、今度は保険適用の薬、治療だけになったので高額医療費制度で今までの1/3くらいの費用にさがります。(と言っても、もちろん高いですよ、、)

飛ぶようにお金が消えていき、お金が尽きるのが先か、再発が先か。常に不安はありました。
でももうお金をかけてもどうにもならない。
何とも言いようのない、気持ちです。

でも同時に、妙に落ち着いた自分も、います。
なんだかいろんなことがあって、感覚がマヒしてるのかな。。


病室に戻り(なんと個室!目の前にはスカイツリー。)

「子供たちに前向きな姿勢を見せることが大事だと思ったんだよ」

と息巻いて言っていましたが、弟と私はすぐちゃちゃを入れるので、「今までずっと後ろ向きだったのに」と言ったらちょっとガクッとしちゃいました。

いつものやり取りです。

もうとにかく暗くならずにパパを支えて行こう。
ママも、すぐ泣いちゃうから なるべく気分を上げてあげなきゃ。


帰り、精をつけて元気出そうと、ママを久々のお肉を食べに連れていきました。言葉も少なく、半分放心状態でいたんだけど、ほんの少しの安い肉がやたら美味しくて、、生きてる実感が、ありました。