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2011年12月26日月曜日

パパの旅立ち

今年のクリスマスは、パパの旅立ちを見送る日となりました。

たくさんのパパの大事な人に囲まれて、安らかな表情で、天国へ向けて出発しました。

パパ、いってらっしゃい。
また会える日まで、天国でおじいちゃんと、パパのお母さんと一緒に、待っててね。

大好きだよ。

2011年10月30日日曜日

週末介護

40日の化学療法&放射線を耐えきりました。

でも、すっかり弱ってしまって次の治療に耐える体力はもうないと判断され、、地元の病院に移ってきたのでした。

10月16日が退院日でした。
その日は弟の誕生日でもあったので、弟嫁が病院近くのホテルをとってくれ、皆でお祝いしました。
築地の新阪急ホテルという、聞いたことないとこだったけど、すごーく素敵な部屋でした!

私は用事があったので夜になってから行ったのだけど、病院が併設されていて、部屋のお風呂はバリヤフリーで車椅子で入れるようになっていました。でもステキな造りなんです!
弟が早々とお風呂にいれてあげたそうです。
30階で、眺めも最高~

私が到着して、また乾杯して、一段落ついた頃、パパが私に話し始めました。
「今日はね、Rくん(弟)にウソつきって言ったんだよ。来る来るって言って全然来ないから、やーっときた時、ツバをぺって吐きかけてやったんだよ。でも届かないから何回もペッペッってやったんだよ。
パパはね、ずーっと、ずーっと、ずーっと、ずーっと(以下略。10回くらい)、待ってたんだよ。」

厳密に言うと、弟は退院日に迎えにくると早くからママが言ってたために、弟大好きなパパは毎日、今日はまだか、今日はまだかと待ちくたびれてしまって、可愛さ余って、、怒りに変わってしまったようなのです。

弟は、言動がおかしくなったパパを意外とあまり見ていなかったのでショックを受けていて、こわばっているのが空気で伝わってきました。

私はもう慣れていたのでパパに、「すっきりした?」 と言ったら
「うん」←すごいさっぱりと
「そりゃー良かった」

しばらくシーンとして弟が何を言うかなと思ったら、こわばりながら、
「お待たせいたしました、、」

私は "やるな、コイツ。。" とやっぱり弟のユーモアは素晴らしい!と感心。

でも実は本気で相当ショックを受けていたようです。
よっくわかる。 でも、こういうことも受け入れていかなきゃ、こちらの身がもたないんだよね。。

翌日は姉弟3人でレストランで朝食。
弟嫁はほわ~んとしてて、私も素で居られるから楽なんだよね♪
たまにはこういうのいいねと思いつつ、会社へ。

弟は地元の病院への移動を手伝ってくれました。

ここはあくまで普通の病院だけど、地元なのでなんと言ってもママの通院(見舞い)が大分楽です。

それにしてもがんセンターとは全てが正反対(笑)
5階だての2階で、ナースは皆恰幅のいい、声も大きいおばちゃんばかり。
パパの細かい要望も、できないと言われることが多くて最初はブツブツ言ってました。
でも慣れてきたら、そのおばちゃんナース(といってもそこまでじゃないけども!)たちの対応が温かい感じがするとまんざらでもない様子。
それに、治療をしなくなったら段々食欲も戻り、不機嫌に当たり散らすことも減り(少し)、週末帰宅ができるようになったんです。

もう脚が弱り切っているので介助がなかなか大変だけど、ママもパパも明るくなってきたからほんとに良かったなって思います。


もう何でも食べさせてあげたいと、お肉も、バターも、ミルクも、何でも食べていいよって欲しがるものをあげてます。
パパは前までは異常なほどチョコレートを欲してましたが、今はなぜか"ココナッツサブレ"一筋。。
一日に1パックは食べます。
あとパンが大好き。
食事中も、中華でも米でも、うどんでも、レーズンパンを横に持ってきて交互に食べてます。
えーって感じだけど、本人がそれでいいならと好きにさせていたら、こないだは食べながら吐いてしまいました。。
やっぱり食べ過ぎだったんですね!

ひょっとしたら、というかうすうす感じてましたが、、脳の満腹中枢がおかしくなってしまっているのかもしれません。
こりゃいけんと、パパの止まらない食欲にストップをかけるようになりました。
機嫌を損ねないよう注意して、、。


トイレも行くんだけど、もう大分前からおしめしてます。
下の世話はほとんどママだけど、これも一人じゃなかなか大変なんです。
ナンバー1も2も、本人も気づかないうちにでてしまっているので、そうしたらママを呼ぶ、という流れ。(汚い話ですいません)
がんセンターでは、しょっちゅう漏れて全身ビショビショになってしまっていたけど、今の病院ではほとんどそれがなくなったので聞いたら、コツがあるのよって言って教わった方法でママもやるようになりました。
さすが、年の功?
でもママがおしめかえると毎回汗だくです。


病院ではお風呂はもちろん、身体をふいてくれることもなくなりました。。
週末帰ってきた時くらいは、と、頑張ってお風呂にいれてあげるようにしています。
あまりに立てない時は、私が入れてあげてます。身体も髪も顔も、綺麗に洗ってあげます。
もうパパのおちんちんは見慣れました(笑)

ほとんどはママがお世話してるけれども、力や体力が及ばない時が当然あって、こうしてママと二人三脚で介護してます。
ベッドに戻って着替えてやっと一段落つくと、いつも、「ありがとうね」って心から言って力強く握手してくれます^^
(うちはハグする習慣ないので、、なんか男同士みたいです(笑))

基本的にはおとなしくなったのですが、それでも時に予想できない行動をします。
ママが出かけていて、私は自分の部屋にこもっていた時、なにやら玄関の方から声が、、
「○○さぁ~ん、○○さぁ~ん!」 となにやらただ事じゃない感じの声が聞こえ、急いで玄関行ったらパパが玄関の外で倒れてる!
近所の人がそれを見つけ、呼んでくれたのでした。

とにかくパパを抱き上げ、ご近所の方が手伝ってくれて一緒にベッドまで連れてきてくれました。
そこへママが帰ってきて、泣きそうな顔で「何があったん?!」
自分がちゃんと見てなかったから、、と反省しきりです。。

しかしいつも2人で支えないと歩けないのに、よく一人で玄関まで、、
「パパ歩けるんじゃん」 と言ったら、
「歩けるんじゃなぁ。。」 と自分でも不思議そう^^;

病院でも、一度倒れて目のすぐ上を打って怪我してて、何があったのと聞くと同室のおじちゃんがどうも徘徊グセがあるらしく、夜中うろうろするのでなんだかパパもつられて立とうとしたら倒れてぶつけた、と。。

ヒヤヒヤしますね。
でも介護って、こんな感じなのかな、となんとなく思いました。
お風呂にも入れられるし、まだ楽な方なのではとも思います。


病院との行き帰りは介護タクシー使います。車椅子ごと乗るのです。

こないだ病院に戻る時に一緒に乗りました。
大きなワゴン車で、前に座って後ろのパパとママを見てました。
もうすっかり夜で薄暗い中、パパは車椅子ですごく高い位置にいるのでなんだが荘厳な感じすらして、その横にニコニコしたママが静かにちょこんと寄り添って座ってます。(ママは基本ニコニコした顔してます)

すぐ着いてしまうから短い間だったのに、とても静かで平和で、温かい空気に包まれていました。
私は背もたれにかけた腕に顔をうずめながら、あぁ、、一生懸命生きてるこの二人に私は一生懸命育てられてきたんだなと、、
胸がじわっと温かくなるのを感じて涙で視界が滲みました。

私は過保護、過干渉な育てられ方をしてきたので反抗期がかなり長く、実は未だに抑えられない反抗心に苦しむことがあります。この歳になっても(泣)ACなのかなと時に不安になります。。
でもこうして一生懸命生きてる姿をみると、そんな苦しさも吹き飛びますね。
二人には二人の生き方で、本当に幸せになってもらいたい、心から思います。






2011年9月20日火曜日

9月19日

今日も、私の運転でママとばあちゃんを乗せて病院へ行きました。

一度行っただけで、もう地図もみないで、だいぶ早く辿り着けました^^
運転にはけっこう自信がついてきました。
この年になって、成長を実感できるって、久々で嬉しい(笑)
ママたちも楽で助かると、お役にたてて一石二鳥!


行っても数時間はずーっと寝てたので私たちも特にすることがなく。
でも聞いていたようには暴れないし、今日はおとなしいんだなと思ってました。

夕方、トイレに行きたいと起きて、ナースコールはしましたがちゃんと、車いすなしで歩きました!(点滴のスタンドにつかまって、ナースに支えられて、ゆっくりゆっくり、、の状態ですが。)

ママの支えで20日弱ぶりにシャワーも浴びました!

歯も磨きました!

ほとんど食べれなかったのに、持って行ったおまんじゅうも食べました!

きみまろのテープ(文字通り、カセットテープ!)も、うるさがらずに聞いて笑います!

ばーちゃんが横で詩吟をうたい始めると、一緒に大きな声で歌いだしました!プチショーのようで、拍手して喜んでいました^^

ずっと寝たきりだったのが、けっこう長いこと座っていました!

ご飯も全部きれいに食べました!

声も笑顔も出るようになって、よく喋りました!


看護婦さんも珍しいパパの上機嫌な姿に笑顔で喜んでくれました。


看護婦さんに、
「今日はね、大好きな家族がいっぱいきてくれたから嬉しいんですよ」
なんて言っていて、なんか泣けました。。


先生から、外泊はダメだけど、外出はして気分転換したほうがいいですね、と言われていたので、「次の週末には浜離宮に行こう。」と言ったら「おお、行こう」と笑顔。

私たちはとっても嬉しい気持ちで病院を後にしました^^


今日は敬老の日。
帰り道、3人で食事をし、ばあちゃんの話をいっぱい聞いて、さすが人生の先輩、私もこういう心持で毎日を生きたいなぁと、常々思う気持ちを再確認しながら、実践はできておらずとも考え方にこれだけ共感できるということは、私はママよりばあちゃんに似ているのかもなぁと、改めて思いました^^

年配の方、お年寄りは、だてに人生長く生きてるわけじゃないです。
その人生からはいっぱい学ぶことがあります。
大事にしないとですね!





ところで詩吟の「武田節」という歌の歌詞が、まさにパパの心境なのだと、ばあちゃんがしみじみ言っていたので歌詞を探して印刷してあげました。
「これが死に逝くパパの心境なんよ、よく覚えとき。」

私には難しい気もしますが、ここに記録しとくことにします。


甲斐の山々 陽に映えて
われ出陣に うれいなし
おのおの馬は 飼いたるや
妻子(つまこ)につつが あらざるや
あらざるや

祖霊(それい)まします この山河
敵にふませて なるものか
人は石垣 人は城
情けは味方 仇(あだ)は敵
仇は敵

《詩吟》
疾如風(ときことかぜのごとく)
徐如林(しずかなることはやしのごとく)
侵掠如火(しんりゃくすることひのごとく)
不動如山(うごかざることやまのごとし)

つつじケ崎の 月さやか
うたげを尽くせ 明日よりは
おのおの京を めざしつつ
雲と興(おこ)れや 武田武士
武田武士



恐怖

入院してからのパパは10日以上、

吐き気とめまいに悩まされ
ほぼ寝たきり
食事も水分もほとんどとらず
目もほとんど開けず
しゃべることもせず
「夜が眠れなくて辛い」と訴え
部屋にあるトイレに行くにも車いす、パンツも看護婦さんに下してもらっている

こんな状態だったので、ママが行ってもほぼ寝たっきりで何もできず、毎日通うのでまた疲れがたまってしまっていました。

さらに

看護婦さんや先生にずっと愚痴を言うそうで
「みんなわしをだましている」
「ウソばっかり言う」
ママとばーちゃんが横で小さい声でしゃべっているとナースコールして「あの人たちがうるさいんですよ」と長々と文句。。

あげく、最近では、あんなに弱弱しかったのにすぐに大声を出して奇声をあげたり恐ろしい表情で睨みつけたり、、

ママまでも指差して「あんたは敵だ!」
「どいつもこいつもみんな敵だ!」
「家に帰る、もうこんなところは戻ってこん!」

と、ナースステーションからびっくりして飛んでくるぐらいの大声で叫び、大暴れするというのです。。

ひとしきり暴れたら、また寝たきりで動かない状態。
ママには

「もう帰れ」
「毎日来んでいい!」
手を触ろうものならママの腕をがしっっとすごい力でつかんで睨みつけるそうです。

かといって、ママが昼過ぎまで姿を見せなければ
「まだ来んのか?!」
「遅いぞ!」

と吠えていると、病院からわざわざ電話がかかってきます。

毎日通うママは翻弄され、疲れてきて、病院に行こうと準備をするも身体がつらいと悲鳴をあげているのでしょう、結局行けなかったり、、

決して見捨てるわけではないですが、今のパパは病気がそうさせているのだと、受け入れないといけないと、思う。

無理はしないで、行けない時はしょうがないのだから先生たちにお願いするしかないと、ばーちゃんも私も叔父もみんなでママに言うのですが、「パパがかわいそう」と、眉をしかめながら一点を見つめ、言います。「どうしたらえんかなぁ、、、」



パパが救急車で運ばれて、手術して、新たにがんが見つかって、また辛い治療が始まって、、その時に言った一言が忘れられません。

「わしは楽になれると思って来たのに、、こんなはずじゃなかったんじゃがなぁ、、」

病院へ来る前よりよっぽどひどい状態となってしまったことを、受け止めきれないでいたのです。

今の、悲しいほど変わりきってしまったパパは、そのことが怒りとなってパパのすべてを支配してしまっているかのようです。
腫瘍のせいなのか、これまでの人生に納得できず悔やんでいて怒りの塊となってしまったのか、、
どちらにしろ、本人も周りも苦しいことは確かです。。



その日がいつ来るかいつ来るか、と怯え、いろんな症状に悩まされながら後退したり好転したり、それでもなんとか普通の生活を送っていた、でもそれがもう1年以上も続いていたのです。
なんとなく、その生活がまだまだ続くような気もしていたと思います。

2年という月日は命にしては短すぎる。

でも闘病生活というのは 患者本人にも、その家族にとっても、この1年半は精神的、身体的な負担が続くには長かったようにも思います。。




人間いずれは死ぬ、とわかってはいても、健康な人には実感としてはどうしても感じられないものです。
それを、病気になって「宣告」という形でタイムリミットを突き付けられたのです。

脳梗塞や災害、事故などで突然命を奪われるのも本当に不幸です。
でも数か月、数年という宣告を受けてその間恐怖や苦しみと戦い続けるのもまた 計り知れない不幸だと思います。。

パパは、いつ逝ってもいいんだ、戦うことを諦めないだけ、、というようなことを言っていました。

それでも、、やはり、死というものは受け入れがたいのです。
じわじわとくるものならさらに、、
これほどまでに人間をまったく変えてしまう、恐怖なのです。。

死というものの恐ろしさを、目の当たりにしているような気がします。

怒鳴ったり罵倒することで少しでも発散できるのなら、私たちはそばでひたすら見守るしかないと、、思ってます。





パパがここまでひどくなって、今、残される私たちには未来があるのだということを、今さらのように強く感じました。


もしかしたら、どちらかというと感受性が強すぎ、弱いところのある私たちが、「自分の死」「親の死」というものを受け入れるために、必要な時間、経験だったのかもしれないと、思うようになりました。


できることを、空振りしながらも、それぞれが必死でやってきました。
思い出をなるべく作ろうと、温泉行ったり、香港や韓国まで行ったり、段々やらなくなっていた家族そろっての誕生日会やったり、、
パパはもともと広島の人ですが、遠くから近くから人が会いに来てくれるので、級友や親戚にも会えました。
疎遠になっていて長年気がかりだった、育ての親のような方とも連絡をとることができました。

家族で、今まで過ごしたことのないような、良くも悪くも濃密な時間を過ごし、たくさんたくさん話しをしました。

死について、親と子というものについて、夫婦について、人生について、そして生きるうえでどうありたいかについて、時間をかけて考えさせられました。
悟るには、1年半は短いですが、、



今まではその時その時のパパの状態に一喜一憂、辛い現実を生きているという哀しみが常に心のどこかを覆い、どこか暗く、心の余裕というものがあまりありませんでした。

でもこれからも生きるママも私たちも、一緒になって潰れるわけにはいかないのです。

ここへきて実はやっと、少しずつ、現実を受け入れられるようになってきたように思います。。

パパが安心して、じいちゃんのように、眠ったかのように次の世界へ旅だてられるように、残る私たちは見守り、強くなって、しっかり生きていなければ。そう、思います。




2011年9月5日月曜日

病気は自分で見つけるもの


今年の2月に がんセンターには見放されていると思ったママが
食事療法に頼るしかないと、西台クリニックというところへパパを連れていき、これまで数回通ってきました。(結局、食事内容を最初にアドバイスされたくらいですが。)


「ガンの食事療法」、「今あるガンが消えていく食事」といった本を多数出している済陽高穂先生のいるところです。


その時に撮った全身のPET画像をママが持ってきて、「これ見て。この頃からわかってたんやね、、」と言ったので見てみると、確かに今回がんセンターで言われた、別場所にガンが見つかった、と言われた尿管、大動脈などに何か影があり、矢印がついて、「異常あり、ただし何かは不明」と言うようなことが書かれているではありませんか!!


その場で済陽先生はがんセンターの担当医(O先生より上の、N先生。執刀医)へ直接電話してママの目の前で伝えていたし、西台クリニックでもらった検査結果やカルテは全て先生へ渡してありました。


それなのに、、何も言われませんでした。


そういえば、パパの尿結石やらなんだかんだで辛がっていても 町医者で見てもらってくださいとしか言われなかったから、なんで病院なのに見てくれないんだとブツブツ言って、不安ながらもちびちびと町医者に通うしかなく、一向に良くならず、困っていました。


なぜならここはガンセンターであって、「癌なのか何なのか」 を検査するところではなく、他で癌と診断された患者を紹介されて初めて受付、治療するという特殊な病院だから、という理由だと説明されて、その時はわかったようなわからないような、、と腑に落ちなかったのですが、今になってようやくその意味がわかりました、、、


つまり今ある不調が癌かどうか何なのか、他で診察してもらわなければいけなかったのです。
町医者なんかではなく、総合病院(うちの町の総合病院は全く当てになりませんが、、)や大学病院に行っていれば、きっと早期に見つけてくれてたかもしれないのです。
そうして初めて、また紹介状を書いてもらい、がんセンターでまともにとりあってくれていたのでしょう。


でも私たち素人にがんかどうかなんて最初から疑う知識なんてありません。。
日頃から通うには 大きな病院の方がいいのかなと思ってしまいました。(うちからじゃ近くになくて、大変、、泣)




パパ方のおじいちゃん(病院通いはしているものの元気)がよく言っていたそうです。




「病気は自分で見つけにゃならんのじゃ。医者はちっとも当てにならん。」




その意味が今、すとーんっとお腹に落ちてきました。


その通りだね。。。






でも、かたや、あまりに神経質になっていると知らなくてよかった病気まで見つかっちゃったり


何か悪いものが見つかってしまったらどうしようという不安に無駄にさいなまれてほんとに病気になっちゃったり


良し悪しですね。。




自分の性格上、どうするのが一番自分にとって良いか、考えておく必要があるのかもしれません。

2011年9月3日土曜日

再発どころか。




最近急に めっきり動かなくなり ほぼ寝たっきりだったパパ。

先日から、急に、おしっこが出にくくなって、血が出るようになったと言っていた。

おしっこ出したくても出ないって辛いよね、、
食事もできなくなるし、、

丸一日出なかった日の、翌日の早朝。

私は前日寝るのがべらぼうに遅く、眠りについてから2時間後の朝5時半、起こされ、10分後には救急車に乗っていました。

パパが救急車を呼んだのです。

もっと早くから起きてトイレを頑張っていたパパが、おしっこを出にくくしていたであろう血の塊がボタっと出たのを見て、自分でただならぬ事態を察知し自分でがんセンターと119に電話して手配していたのです!

すごい、いつも思うけど、普段は弱弱弱しくてゆっっくりなのにいざという時の行動はしっかりしているし、早い。。

救急車が着いたらすぐに身一つで乗り込んで、私と母待ち状態。

私とパパはボーゼンとしてました。
ママは涙ぐみながら不安そうに、ずっとパパを見つめていました。
表情のないパパもときおり、ママを見て また天井を仰ぎます。

こんな時、ほんとなんて言って良いのかわかりません。


それにしてもすごい揺れる。。パパが横たわっている担架なんて、もっと揺れてる。
そしてピーポーがなんせ真上なので、実に騒々しい。
乗り物酔いしやすい私とパパは、「酔いそう、、」と青ざめてました。

普段タクシーで4、50分くらいかかるところを30分で到着。

救急センターに到着してしばらく後、勢いあまって自尿がでました。
450gもの、どす黒いほどの、まっっ赤な血、、いや、尿、、。

とりあえず出たので、ものすごく安心してましたが
血栓がある限りまた同じことの繰り返しです。

とりあえず尿管に太めの管を入れて詰まらないような処置をされました。

が、この管が、本当に痛いのだそうです。
想像しただけでも痛いけど、本人の痛がりようは、半端じゃありません。。

男性は女性より、特に有る程度の年齢を超えた方は、やはり相当、、痛がるそうです。。

この管を入れたことのある女性の先輩は、すごい痛い、すぐにでもとってほしい、そんな状態が続くからすごくつらかった、と。。
男性の痛がり、特に痛いの嫌いなパパにとっての痛みは、想像もできません。。

泌尿器科の病棟へ移りました。16Fで、以前いた脳外科の17Fと同じつくりです。
またここに戻ってきたな、、と複雑な気持ちでした。懐かしくもあり、戻ってきちゃいけないのに、、と思う気持ちもあり。

医師も看護師の方たちも、あれこれ手はつくすけれども痛みは取ってあげられず、ぐったりしたその状態でやれレントゲンだやれMRIだ、それでもわかんないからやれCTだと、午前中はひっきりなしに誰かが来てはパパを起こしたり寝かしたり、どっか連れてったと思ったら急に車いすで戻ってきたり。
いつのまにかゆかた(病院用のパジャマ)に着替えていたり。

お昼を回る頃にはパパはミイラのような放心、抜け殻状態でもはや喋る気力も目をあける気力もない状態でした。

私はずっとパパのベッドに突っ伏したり、しばらくいない間はベッドに入り込んで寝ていたり、とにかく朦朧としていてひたすらフラフラしてました。
うろうろしてタイミングを外してばかりのママに代わって看護婦さんや医者の話を聞き、サインをし、寝ころがって、の繰り返し。

CT後、膀胱に血の塊があるからとにかくその止血をする手術をしたほうが良いということになり、説明を受け、あれよという間に手術室へ連れていかれました。

全身麻酔をして、尿道から内視鏡を入れて、膀胱内部を見つつ血と塊を出し、出血している部分を焼いてふさぐ。

これが約1時間。

終わるまで、休憩所や待合室で少しだけ仮眠。
4時半ごろ、本当に約1時間でPHSが鳴り、パパのもとへ。
手術(止血)はとりあえず成功したそうで、真っ赤なおしっこや、詰まることももうなさそうです。ほんとによかった!


もうろうとしているパパに、頑張ったね!と声をかけ、麻酔がまだ効いているし、かなり疲れてるはずだから、今日は私たちも安心して帰ろうということになりました。
ご飯食べて帰ったらもう6時半。丸々半日かかったんだ!
すごい疲れて、でも半ば興奮状態でもいたかもしれません。

あわただしい一日だったけど、とりあえずパパの苦痛が一つ解決して良かったなと思って深い眠りにつきました。



翌日。



午後、ママが電話してきました。

「あのね、癌が見つかってね、尿管癌だって。明日5時に家族を呼んでくださいって。来れる?」

あぁ、、、
鼓動がちょっと早くなり、思わずすぐ尿管がんを調べた。
余命、平均1~3年。

そうか、、、、、。



会社帰りに病院寄って、吐き気とかめまいがすると言ってまだ何も食べていませんでした。
パパの弟さんも来てくれて、でもほとんど動きもしないし喋りませんでした。

私たちが帰るというと、「そんな寂しいこと言うなよ、、」「昨日は全然眠れなくて、寂しかったぁ、、、」

なんて言うのでママは思わず戻ってきて「じゃもうちょっと居ようかね」と言って手を握り、いっこうに帰れません^^;

パパはまだ、新たな癌が見つかったとは聞いていないけど、先が短いことを 感じとっているのでしょう。。



翌日、午後半休をとって病院へ。
主治医のO先生は忙しく、結局話を聞いたのは6時を回ってからでした。

パパを車いすに乗せて、脳外科担当のO先生から聞いたのは予想もしていなかった言葉。
まとめて言うと、、


「一難去ってまた一難で本当に大変なんですが、尿管と大動脈に病変が見つかりました。尿管癌です。大動脈へ転移したようです。
腎臓の方にも小さい癌があります。これは進行が遅いのでしばらくはいじらないでおきましょう。
さらに、耳の後ろのあたり、小脳にも新たな腫瘍が見つかりました。」

?!


なんということ、パパの身体は、これほどまでに蝕まれていたのです。
運動しないと筋肉が衰えちゃうよ、としつこく言っても、必要以外はほぼ寝たっきりだった最近のパパ。
布団から起き上がるのも戻ってきて横になるのもかなり時間がかかってたパパ。
それでも少し前まではデイケアセンターにも行って、がんセンターにも来ていたのに。

身体の中ではこんな恐ろしいことが起こっていたんだね、、

そう思うと、かわいそうでしょうがなくて、熱いものがこみあげてきます。


この小脳にできた癌が性質が悪いそうで、
余命3~6か月とのこと。。
先生はいつも短めに言うけれど、年末を迎えられるかどうか。。

泌尿器科の先生ともお話して、尿管がんは年単位だけれどもこの脳腫瘍は数か月単位でとても早く進行するため、今最優先すべきは脳の治療ということで、アバスチンはもう中止。
なんと、新しい腫瘍にはまた、側頭葉の腫瘍で最初に行った、放射線+化学治療(テモダール)という方法しかないそうなのです。

振り出しにもどった感否めず、、。

これも、延命にとどまる程度、ただし何も治療しなければ本当に進行は早いそう。。
尿管がんのほうは、とにかく出血をまたしないように処置をする必要があるということで、こちらも放射線治療になるそうです。
おそらく同時にできるはずとのこと。


私たちはただただ黙って聞いていました。
もう、私たちが決められることではないなと、思ったのです。

もう、延命だけというならば、痛みや苦しみからはせめて解放させてあげたい。でも何もしないわけには、、

治療を始めたら、また、放射線と抗がん剤の副作用に悩まされる日々が続いてしまう。頭がガビガビになり、毛も抜け、常に吐き気に悩まされ、便秘にも苦しむ。

ここまできたら、本人の意思次第だ、、

そんなことを思いながらパパの方をみると、つながった点滴の管を指にぐるぐる巻きつけながら落ち着きがなく、目も焦点が定まらず、大きな貧乏ゆすりをはじめ、何か言いたげでも言葉が出ない、とても動揺を隠せないでいるようでした。
そんな姿を見るのは 辛かったです。。

でもしばらくして、パパは、大きな声をだして、「うん、やる、やります」と言いました。

副作用は嫌だけど、治療をしなくてもどうせ苦しいしすぐにお陀仏になってしまう、自分はがんばって治療を受けて、少しでも長生きをして見せる、と。


私たちは うん、うん、と大きくうなずき、皆でパパの意思を共有し、お願いします、と先生方に託しました。



あの超高額な未承認薬を使えなくなり、今度は保険適用の薬、治療だけになったので高額医療費制度で今までの1/3くらいの費用にさがります。(と言っても、もちろん高いですよ、、)

飛ぶようにお金が消えていき、お金が尽きるのが先か、再発が先か。常に不安はありました。
でももうお金をかけてもどうにもならない。
何とも言いようのない、気持ちです。

でも同時に、妙に落ち着いた自分も、います。
なんだかいろんなことがあって、感覚がマヒしてるのかな。。


病室に戻り(なんと個室!目の前にはスカイツリー。)

「子供たちに前向きな姿勢を見せることが大事だと思ったんだよ」

と息巻いて言っていましたが、弟と私はすぐちゃちゃを入れるので、「今までずっと後ろ向きだったのに」と言ったらちょっとガクッとしちゃいました。

いつものやり取りです。

もうとにかく暗くならずにパパを支えて行こう。
ママも、すぐ泣いちゃうから なるべく気分を上げてあげなきゃ。


帰り、精をつけて元気出そうと、ママを久々のお肉を食べに連れていきました。言葉も少なく、半分放心状態でいたんだけど、ほんの少しの安い肉がやたら美味しくて、、生きてる実感が、ありました。





2011年8月28日日曜日

帯状疱疹、 また、、

しばらく調子がいいかな?という日が続いていたように感じてたのですが、急にまた調子が悪くなったと言うので不安でした。

両目瞼も目の下も赤く腫れ、やっと病院に行ったらなんと、またもや、帯状疱疹だということでした。

3回もなるなんて、、どんどん、免疫力が下がってきているんだ。。


ついこないだまで、笑って話してて明るかったのに。

首なんて、もうがくーっっと前に落ち込んで、わざわざ顔(頭)を上げないと前が見えない状態です。

会社へ行くか行かないか、毎日メールで会社に報告しているようですがもうほとんど行けておらず、仕事にもいかないでさぼってばかりいると自分を責めていました。

パパは、何もしないでぼうっと天井だけ見つめている時間が何よりもつらい、と言いました。

そこへきて、ずっと痛みがあるのです。想像できません。。

本を読んだり音楽を聴いたり、気分転換になりそうなことをあれこれ提案してみても、何もしたくないと言います。

家族で旅行でも行こうとあちこち話には上がるし、パパも、息も絶え絶え、な声で行こう、、と言っているもんだからどうも、家族旅行はできないかもです。。

何もできないことがもどかしく、いたたまれないです。


それでも今日は、私はでかけていたので夜帰ってみると、PCの前に座って何やらやっています。

元気でてきたかな?と思ったけど、
「どうすればネットにつながるのかな、もう1時間もやってみてるんだけどつながらないんだよ、、」
と言っているその画面はネットにつながっています。
Amazonである本を検索したかったようです。

視線を動かすのもゆっっくりだし、教えるよりも私がやってあげる、と、調べたいものを聞いてさっとやると、
「何をやっているのかわからない、、パパには難しすぎてわかんないんだよ」と。。

あまりそういうことばかり考えなくてよいように、どうしたらうまく言えるものかなと、悩んでしまいました。

本人が、辛い胸のうちを話したいだけ話すのを、心から聴いてあげること、それしかできません。。
ママも過敏に反応しておろおろするので、とにかく話を聴いています。


以前のようにまた頭中腫れちゃうのかな、今度はどうなっちゃうのかな。




2011年8月9日火曜日

葛藤 その2

週末、もんもんとしてる私を 友達が連れ出してくれました。

行く前に、両親の顔が見たいからとお土産もって家まで来てくれたのは嬉しかった。あち~~と言って二人して扇風機の前で冷たいお茶をがぶ飲みして、さて行くか!といって チャリで二人乗りしてよろよろ出発するのをパパママが手を振ってお見送り。なんだか懐かしくって嬉しかったなぁ^^ 両親ももちろん喜んでました。


遠出をしなくなってから久しいので、結構遠いところ(車ないし)は億劫で行かなくなってたんです。
でも思い切って高尾山!行ってみたら すごい、気持ちがいい!

なんていうか、大自然に包まれて、非日常的な空間で、とても開放的になるし汗もいっぱいかいて(着替え持っていけばよかった、、、)健康的な感じが、何よりよかった^^

友達とペチャクチャおしゃべりしながらひたすら山登り。
とってもリフレッシュになって、連れてってくれたことに感謝感謝!でした。


だけど。

家帰って、買い物から帰ったパパがそれはもうくたびれて、毛布をかけるでもなく寝るでもなくただ横たわってる姿を見てると あっという間に現実に戻りました。
アーモンドチョコが食べたい と言うのでもっていくのだけど、手に粒を置いてあげても手を動かせない。ゆっくり喋るのを聞きながら、口に一粒ずつ入れてあげてました。

ご飯ですよー という声に すぐ立ち上がることもできず、右が五十肩というのもあって 身体を振り子のように寝ながら揺らして勢いをつけて、左手をついてようやく起き上がるのです。支えなければ、もっと遅いです。
買い物中も、デイケアセンターに行き始めたのでジャージを買いに行ったそうなのですが 試着にとにかく時間がかかったとのこと。もう、立ったままではパンツを脱ぎ着することができないんですね。
裏表だったりしても、気にしない。
そんなことより着れた というほうが大事なのです。
そんなパパをママは寂しそうに見つめます。

高尾山の話をいっぱいしたかったけど、二人とも自分のことに精いっぱいでほとんどできませんでした。

パパはチョコを異常に欲してよく食べるのでお腹はかなりでてきてしまってるけれど 身体は 特に手足はすっかりやせ細り 一つ一つの動きも遅く、首はがくっと前に出て、58才にしてもうすっかりご老人のいでたちです。

通勤も(一応)するし、ご飯も食べるし、デイケアセンターに一人で通い始めるなど一見元気なようだけど、最近はずっと表情も暗く、何かを考えているのか、痛みに耐えているのか、、 パパを見ているととても、辛くなります。。
せっかく一時期調子がよさそうだったし アバスチンも腫瘍の拡大を抑えているのに ここまで暗くなったのはアバスチンの効果が平均で3か月と 先生に聞いてからのような気がします。もしくは 今までできていたことがゆっくり、でも確実にできなくなっていくことを感じて暗くなってしまうのでしょう。。。

もちろん、この1年半、闘病生活の中で暗くなることはそれはそれはしょっちゅうですが。。

本来のパパは めちゃめちゃお茶目で明るく、よく冗談を言っては笑い、頭もよかったので聞けばなんでも答えてくれて、かなりのお人好しで、心の広い人なんです。

この1年半で、本当に変わりました。
昔からパパママのことを知っていて好いてくれる(私の)友達がいることは、すごく嬉しいことです。


笑ってはいけないシリーズのDVDが届いたので見始めました。
パパママは笑って見ててくれたからホッとして、一緒に見たかったけど、なんだかどうしても心から笑えず、その場にいれなくなって部屋にこもりました。


せっかく楽しい、充実した一日を過ごしたけど、こうして両親と毎日過ごせてはいるけれど、言いようのない寂しさ、やりきれなさは 募るばかりです。

おばあちゃんが私たちに言っていました。
病人とずっと一緒にいる方も 病気になると。私は実の子供だけども 長男的な役割を担っているけれども、やっぱりずっと一緒にいるのも苦しくなって逃げ出したくなる時も、実際あります。。

でもママなんて四六時中パパと一緒、常に面倒をみながら 泣くこともありながら、それでも明るく鼻歌歌ってジュース作ったりしてるのを見てると いろんな面で頼りないママだけど、夫婦の絆ってものをしみじみ感じて、頼もしく感じます。弱音はいちゃいけないなと、、反省しますね。


しばらくしたらまた、パパが明るい表情に戻りますように。


2011年8月5日金曜日

おばーちゃん メールデビュー

おばーちゃんが、メールを打つ練習をしていくつかパパたちにメールをくれるようになりました。

それがもう、かわいいのなんのって。。(泣)
皆で読んで、頑張って解読するのがすごく楽しい。大笑いです^^

それを聞いておばーちゃんも、意図とは違うけれども楽しんでくれて嬉しいと、喜んでいました☆


これがおばーちゃんのメール^^ ↓

メールおほ ーたらけんきなーてね


 ヽ気持ちー前にいのつてる


かんこくひろはのちうもんこないわすれているの


あんしんしましたーわたしわなにもてきないけれとーふたりかなかよくすることかいちはんてすー


たかひこちらもとりのこえかきこえていますーあついのてきおつけてまたさんは・ーにゆけるひかたのしみ




一生懸命で いじらしくって 可愛くって ほんと、うちのばーちゃん大好きです☆☆





最近受けた、脳のPETの結果がよかったし、アバスチンも今のところ効いているようで(すごいことだ、、)パパの調子は今のところ良い感じです^^

立ち上がるのに時間がかかるようにはなっていますが。

明日から、デイケアセンターへ毎週行くことになりました。
毎週土曜日、ちゃんとお迎えも来てくれて、国からの補助で¥800程度で毎回利用できるそうです。

12時半~4時頃まで。
マッサージ、ストレッチ、ホットパック、自転車こぎ、自主トレーニン具(リハビリ)。

今日ママがずっとその契約をしてて、書類が山のようにあり、なんと3時間かかっていました。。こんなの、介護してるママが理解できるからよいけども 介護する人がいないとか、夫婦そろって老人でよくわからないとか そういう場合はどうするのでしょう。。

ウケたのが、今日契約にきたセンターの方の名刺をみたら、
名前が”りょう” (弟もりょうです)、センターの名前が”さとみの郷” (私の名前)

なんて偶然なんだろう!1人でも、私たちに見守られてるんだね~とほんわか^^

付き添いはつけられず、パパ一人で行くようになります。
この間がママの定期的な自由時間となるでしょう。

もちろん、パパが行ける状態である限り、ですが。

友達と会ったり、どこか出かけたり、たまにはパパのことを忘れて自由な時間を満喫してほしいです。



今日は、パパの大好きな ダウンタウンの 笑ってはいけないシリーズのDVDをアマゾンで買いました(笑) 
近年のはおもしろくなさそうだから、古いやつ。
楽しみです。

2011年7月30日土曜日

現実

昨日、帰ってからのパパはずっと無言で暗かった。
気分の浮き沈みが激しいのはいつものことだから、特に触れませんでした。

パパが寝た後、実は今日会社で パパがとても仲良くしていた方に怒られたらしいと ママから聞きました。
パパは会社にやっとの思いで行っても仕事がないので 他の方のやっていることを聞いて今の会社の状態を把握しようとしていたらしいのですが そうやって病人が会社の中でフラフラして 仕事してる人達の邪魔をしないでくれと 言われたそうなのです。
厳密には その人はそんな風には言ってはいないと思います。
おそらくパパがそういう風に受け止めてしまったのだとは思います。

会社に行きだした頃から おばあちゃんまでもが危惧していたことです。
会社のお荷物にならないか、そのうちパパにかまわなくなって パパが仕事もしていないのに放置されて寂しい思いをしないだろうか。

いくら、病気の進行を抑えてるとはいえ、たまに会社にも行けるとはいえ、いつ来るかもわからない病人の状態では仕事なんてもらえるわけがありません。あくまで職場に「通う」練習をすること、病院だけでなく社会とつながっていることを実感するために行くなら意味があるかなと思っていましたが、辛い現実を見て 落ち込んでしまいました。
パパの気持ちが痛いほどわかってまた ママが泣きます。

本人がどこまでわかっているのだろう、そんな気持ちがありながらも見守ってきましたが、やっぱり、、。


パパの脳の正常細胞はガン細胞が(薬で抑えているため)ゆっくり浸潤し蝕んでいます。
特に前頭葉の部分に浮腫が広がっているので、感情を統制する機能がうまく働かないのではと思っています。元気な頃と比べて もちろん、だいたいは普通に会話できますが、姿も中身も もう別人のようになって久しい。
健常者からは想像もつかないけど、そんな自分とも必死に闘っているはずです。

生きているのも拷問だ

そんな風に言うことがあります。
もはや理性もプライドも持てなくなってしまったら生きるってなんなんだろうなと思ってしまうけど
そんなことをぼんやり思いながら眠りにつきました。


でも 今日のパパは機嫌がいいみたい。
もう忘れているのか、とりあえず考えないことにしたのかはわからないけれど、そのままでいてほしいです。

天気もいいしね。とりあえずは、良かったなぁ。

2011年7月22日金曜日

アバスチン 2クール目 終了

今日は会社を休み、頭が心配なママの代わりにパパの病院に付き添いました。
アバスチン投与のため、です。
今日の睡眠3時間。昨日も、3時間くらい。
ものすごく眠い。。。

しかし起きたらパパはもういなくて、体調の悪いママを気遣って一人で病院に行ってきますとメモが置いてありました。

病院のアポは10時半の予定だったので これまたずいぶん早いなと、、眠れなかったのかな、など思いながらも弟にせかされながら準備し、病院へ。

ちゃんと、受け付けも済ませ 待合室でぼーっと待っているパパを見つけ、おはようっと隣に座ったらびっくりしてました。

点滴を受けている約45分の間、待合室の椅子で爆睡して、足がかつてないくらいにしびれた、、(苦笑)
点滴の針は太くて 骨と皮の間の 肉がほとんどないようなところに刺すから、すごい痛いのだとパパが言っていた。痛そうだった。。


2クール目の3回目がこれで終わりました。

昨日のMRI画像を見ながら担当医のO先生は、ママとパパが昨日、お金がないからもうこれで終了にする、それしかない、と伝えていたらしく、続けます、ときっぱり意思表示をしたら、びっくりして、ちょっと安堵して、でも果たして本当に支払続けられるのかどうなのか と半信半疑、な様子でした。

何度も、話の最後には 続けるということでいいんですね?と確認されました。

私はきっぱり、「効いている間は、可能な限り続けます。お願いします。」と伝え、先生もよし!という感じでなんとなく安堵の表情を浮かべ、スケジュールを伝えてくれました。


O先生は淡々としていて言いにくいこともあまり躊躇なく患者本人に言うし、表情もあまりないですが、でも話はずっと聞いてくれるしこちらが納得するまで付き合ってもくれる、先生として一生懸命考えてくれているということも伝わってくるし、時にユーモアも混ぜて話してくれる。

いい先生です。

帰りには ママもおばーちゃんも行ったことのある築地のお寿司屋さん すし三昧で、パパと遅いお昼を食べました。
あまりに睡眠不足のせいか、すぐに、苦しいくらいおなか一杯に。。。^^; 
ママのために持ち帰り用も手配したら、ママ、きっと喜ぶぞ~ととっても嬉しそう。台風のピークだといわれていたにも関わらず結局雨は降らず 青空も出て、ずっと険しい顔をしていたパパの表情もやわらかくなって、最近面白かったTVの話で笑ったり うたた寝しながらいい気分で帰ってきました。

帰ってきて開口一番、ママに頭はどうだ?と具合を聞きます。
大丈夫と聞くとほっとして、お土産話をして、すぐに寝ちゃいました。


結果が良かったから安心したんだろうねと、ママもほっとした様子。


でも 先生が言っていたことは決していい知らせではありません。

前から何度も念を押すように言われていますが、アバスチンは今現在、日本では未承認薬でありながらもパパの病気には一番効果がある薬です。現に進行が抑えられているという結果が出ている。

でも 完治する薬じゃない。

特殊な薬(誰でも使えるわけじゃないし、治検の結果くらいしかまだ日本にはデータがない)なだけに、これまでのアバスチンを受けた人の流れというのはアバスチンを続けていながらも再発してやむなく止める、薬を替える、という場合がほとんどで、お金が続かなくなって止める、ということはなかっただけに、パパの場合、始めたはいいものの止め時が難しいと、私たちも先生も、自覚し、悩んでいました。

私も弟も、貯金はほとんどないし、今後のことを考えるとすべて使い切ることに少なからず躊躇がありました。。

だけど 今私は働いていて、給料ももらっている。少なかろうが、貯金が少しはある。これらを薬代に使い切ったとしても、その後また稼いでいけばいいじゃない、、、

私たちには先があるけれど、パパには、今しかないのだ。
万能薬じゃないだけに、再発するまでどのみち長くはないという。
今、できることをできる限りやらなくてどうする。

そう思い直してからは、気もちが吹っ切れ 効果があるうちは、続ける!と心に誓ったのです。

でもそれはあくまで家族の意思。
パパは、できるだけ苦しまずに あの世に行けるなら もういつでもいいんだと 言います。
期間がどう変わろうと、結果がわかっているだけにそんな大金を遣ってほしいとは思わないと。。
でも ママが泣くから 一人遺すのがかわいそうだから 頑張って元気になって働いて 面倒を見てやりたいんだ それだけなんだ、、 と。。

だから、効いているうちは少なからず元気でいられるアバスチンを、続けることには意味があるんだよと話し、お金の心配もしなくていいと なんでもないように話しました。
パパは そうか、、とどこを見るでもなくうつろな目で宙を見つめ アバスチンを続けることを了承してくれました。


先生には詳しくは話しませんでしたが、こんな家族の気持ちを察してくれていると思います。

喧嘩した話もしたら、喧嘩なんかしないで仲良くしてください、とちょっと笑いながら諭してくれました(笑)



実家のトイレには、よく田舎の家にあるように、格言集のような日めくりカレンダーみたいなものが掛けてあります。

今日の一言:

明日を思い患わず 今に生きよ
今を生きる者は 幸いなり



2011年7月21日木曜日

喧嘩

今、弟とパパが ママを連れて病院へ行きました。
今何時なんだろう、、 2時半だ。もちろん午前です。

それはそれは高額な未承認薬と少し借金を抱えながらの生活。傷病手当期間が終わってしまった今、今後どうするか、について冷静に話し合おうとしていただけだったのに。

仕方のないことだけど、パパママはどうしても客観的視点に欠けてしまっている状態だ。 半ばやけにもなっている。 
話していると、私と弟も冷静さを欠いて 感情的になっていき あげく家族みんなで大ゲンカ。

日頃の疲れ、悲しみ、憤りから ママは見たことがないほど発狂し大声で泣きわめき パパと一緒に死んでもいいなんて言い出し それに対して弟も見たことがないほどに怒り、パパも大声を出してママを責めるなと 私たちに怒った。

責めてるつもりはもちろんないのだけど、パパママに論理的思考なんてもはやできるわけがない。責められているように感じさせてしまったんだ。
でもわかっていても、頑張るって言ってほしかったんだな、、充分すぎるくらい、ママはずっと 頑張っているのに。
それに卑屈なことを言うパパにも、もっと前向きなことを言ってほしかったんだ。
それこそ充分すぎるくらい、誰よりも辛い毎日を過ごしてきているのに。

でも私も弟も 自分たちなりに、できることを精いっぱいやっているし、やっていく覚悟はある。それをないがしろにされた気持ちになって、納得がいかなかったんだな。。つまり私たちも冷静さを欠いていたわけだ。
やっぱり、私たちも 辛いから。


最初こそ大声出してしまったのは私だけど、親兄弟が怒鳴り散らし始めたらさすがにもう言葉は出ない。。なんでそんなことを言うんだろうという悲しみや絶望感でいっぱいだった。

でもそんなに半狂乱になるママは初めてだったし、その辛さ、やり場のない深い悲しみ、憤りはいやというほど伝わった。
大声を張り上げて泣き出したママを見て抱きしめずにはいられなかった。
腕の中で暴れるママを 逃がさないように離さないように しっかりと抱きしめた。ごめんね、ごめんねって言いながら。


頭が痛いって 急に頭を抱えてうずくまり、呼吸が乱れながらも、パパがたまに発狂して家を飛び出していく気持ちがよくわかった、おかしくなったんだと思ってたけど、やり場がなかったんだね、今までごめんねって、泣きじゃくりながらパパに何度も謝った。

パパはずっとママをかばい、背中をさすって優しい言葉をかけ続けた。私たちには、お願いだからママを追い詰めるようなことは言うなと、びっくりするぐらい大きな声で 怒った。

弟はね、ずっと私の味方をしてくれてたんだ。
言っている内容はしごくまともで、優しいことを言っているんだけど、ただ言い方がきついだけなんだよって。内容を聞いてって。

でもパパはずっと謝り続ける。すべての原因はパパにある、ごめんなさいって。 お金をジャバジャバ薬に使わないでいいって 言う。
私は、怒るわけにいかないと思ってたのに、口調はどうしてもきつくなってしまったんだな。。そんな風に言わないでほしいっていう気持ちが強くて。
それでこんなことになってしまった。 原因は私か。。。

今3人は病院にいます。

行く前ママが、(弟)を怒らせてしまったって泣きじゃくりながら謝っていた。
そして ぼーっとしてしまって表情が氷ついた私に抱きついてきて ごめんねごめんねって何度も謝った。一生懸命になって考えてくれてるのにママがわかってなかったね、ごめんねって。さっきずっと抱きしめてくれてありがとうね、ママにはそうやって抱きしめてくれる人がいないから嬉しかったよって、泣きながら 何度もありがとうねって 言ってくれた。

だから言ったでしょ、ママは一人じゃないんだよ。
だからもうどうでもいいなんて言わないでよ。。

すでに大分落ち着いてきてたけど、夜間診察の予約とったから念のためと言って病院へ行った。
弟がいるから安心と思って私は残った。やっと、私も落ち着いてきた。。

しかし、どこか頼りなさげだけど心が優しくて 人情に厚く道理がわかる弟がいて本当によかった。もし一人っ子だったとしたら、心の冷たい兄弟だったら、本当に辛かっただろうし 支えるにしてもかなり限界があるよなぁ。。
いつか子供を持つ日が来たら、最低二人はほしいなとしみじみ感じました。

パパも怒鳴るほどの元気があるのを見て、複雑ながらもちょっと嬉しかった。普段は消え入りそうな声でしゃべっているからね。


しかし、昨夜も調べ物で 寝るのが明け方くらいになってしまって
いたというのに、また寝不足だよ、、、

残業しなくなってもこの生活は変わらないんだなぁ。。

2011年6月23日木曜日

ハマっています。

実は私、K-popに今更のようにハマっちゃってます(笑)

私はなぜか洋楽をあまり聴かなくなって韓流に徐々にはまり始め、
今じゃBigBang大好き(笑)
でもこれって、今の日本の大部分の人の流れなのだそうです。

BigBang, いいですよ〜〜 歌も声も好き〜〜:D
BIGBANG2というアルバムが好き。最近毎日聴いてます。
歌うまいんですよ!!
中でも好きな曲(japanese ver)↓


でもテソンが、、、ちょっと前に事故起こして、今は活動休止中なんですよね。。
事故のあった橋、通りました。たまたま。
一番声が好きなのに、、ほんとに不運な事故で、よりによって人気絶頂アイドルがこういうことになったりするんですよね、不思議なことにTT
活動再開できるまでになるかどうかもわからないけど、待つしかないですね。

ほんとちょっと前までは、かわいさ満点の東方神起がいいと思ってて、
私はThe 一般人なので、やはりジェジュンがいい(笑)
ただし5人の頃の!! 5人のままでいてほしかったなぁ。。
昔Tが和田昌也さんと作曲・編曲担当したTry My Loveもけっこう好き♪

なぜか、解散してから気になって好きになるというパターンなんだよね、私って。
*チェッカーズもそうでした^^;

中途半端にハングル、母音だけ読めるようになりました(笑)


ママは筋金入りの韓流オタクなので韓国旅行、パパと行きたいって、言うだけでもびっくりなのに、なんとほんとに連れて行きました!ばーちゃんまで連れて!

先週末。
同じ週末に私もTとTの友達夫婦と一緒に行ってたので、現地で皆で会う事ができました!!
その日は父の日だし、来る23日はおばーちゃんの誕生日。

こりゃいい機会と、ケーキにキャンドルたててもらったりしてちょっとしたお祝い☆
することができて、パパも機嫌が良くてほんとに良かったです。


翌日からはまた体調も良くなくて、ずーっと部屋にいたりとにかくどこも行かなかったというので帰国後は機嫌悪かったんだけど、まぁ、仕方ないですね。。行けただけでもすごいんだから。
お医者さんもいちいちびっくりですよ。

これで弟夫婦も来れればよかったんですけどね!!結婚記念日だったし。


パパも韓国料理がそれなりに好きで、家でも新大久保の韓国スーパーから取り寄せたサムゲダンしょっちゅう食べてるんですよ〜

余談だけどほんとに新大久保って、原宿と化してますね。
ママが、若い子が増えすぎて行きづらくなったとぼやいてました(笑)


7/13には東京ドームのKBSのイベントに行きます!!
なんとTの会社が、いろいろアーティスト関係もやってるんですけど
KBSとも手を組んで、プロデュ―スを手がけているんです!
ちょー楽しみ〜〜♥


韓流ファン仲間が欲しいので私もスキーって人、誰かいないかな〜
会社では今のとこ一人しか見つけてない^^;

一緒にSATCではしゃいでた友達にはまさかの寝返り(笑)とブツブツ言われるけど、今は欧米はなんだか活気がない気がして。

今回韓国行って、トイレ事情とかはまだまだだけど、おしゃれなお店や雑貨や服とかも多いし人の消費意欲もすごいし節電て何?的な勢いをすごーく感じてパワーもらって帰ってきました。

会社でも、なんだか上司たちにいいなー、俺も行きたい、今すごいでしょ、あの国。
みたいな事言われましたよ。

のり輸入するか!とか言ってw

また、すぐ行きたいよ〜。


2011年6月14日火曜日

復職とエコノミー症候群

とりとめのないタイトルですが。

気がつけば5月中は丸々1ヶ月書いてなかったんですね。
その間にもちろんいろいろありました!


アバスチンももう4回やりました。
副作用はもちろんあるわけで、帯状疱疹もまだ残ってて頭痛いし、常にどこかが痛く、不調と戦う毎日です。(私もいつもどっかしら辛ーいとか言ってるけど比べ物にならない。なる訳が、ない。。)

そんな中。
私の結婚式にも来てくれた、NY時代の友達がパパになんかしてあげたいと、かなり身体に良さそうな健康食品を送ってくれました。

気持ちだけでも嬉しいのに、行動にうつしてくれることがものすごく有り難く、届いてから、パパと有り難いねぇって話してて電話口で涙声になっちゃいました。

彼女にはいつも、パパの事でママや私のことまですごく心配してくれてて、心強い言葉をかけてもらっては両親共々癒されてるんです。

やっぱりこういう事はどうしても人ごとなので、言葉だけならいくらでも言えるけど、そこにどれだけの気持ちがこもってるかは人によっても関係によっても大分違いますよね。
彼女は愛という字を人にしたような女性なので本当に胸を痛めてくれてる、心配してくれてるのがわかるのです。

千葉の片隅でひっそりと、毎日病気と闘っている老夫婦にとって、彼女のように心底応援してくれる外の人たちがいるってことが伝わるのが、どんなに心強くて嬉しい事か。
いつも痛みにこらえて険しい表情をしていても、そんなときはパパの顔に笑顔が戻り、本当に嬉しそうです。
私も、嬉しい。
家族や、心底心配してくれている人たちと話して時には笑ってワイワイすることが、何よりの薬になると、パパは言っていました。

私は自分が病気なのではないけれど、こうやって親が闘病していることで一緒になっていろんな事に気づかされる毎日です。


そんな応援を支えに頑張ってきたおかげか、アバスチン始めてからのMRIでなんと播種が一部、陰が薄くなっていたのです!一部だけど、進行を抑えているってことです!
アバスチン、すごい!

一時元気を取り戻して、ヨロヨロしながらも私が予約とってあげたオークラ東京ベイのフレンチトーストだって食べに行ったし(私も行きたかった! ^^;)、なんとこないだは、フラフラしながらも車を運転したと言うのでそれはさすがにびっくり。
危なっかしいぃぃ><

大ニュースはなんといっても、パパが会社復帰を果たしたこと!!
会社の社長さんや部長さんや同僚の方々がすごーーくいい方達で、家まで何回かお見舞いに来てくれたり、無理のないような勤務体制にしてくれたり、会社にパパだけでなくママの席まで用意してくれたりと心配りが有り難く、初日も温かく迎え入れてくれたそうで、とても感動してました。
いい会社だなぁ!


しかし。

パパと一緒に通勤することになったママは、毎日会社へ通うということをほとんどした事がありません。3日目にはママのほうがダウンしてしまって、この夫婦は二人で一人なのでこの日は早速会社を休んでしまいました^^;

そのまま週末に入ると今度はどうもおかしかったパパのふくらはぎがどんどん腫れ始め、歩けなくなってしばらくまた行けなくて、やっとこないだがんセンターで診てもらったらなんとエコノミー症候群でした。

動かなくなるから、患者さんはよくなるんだそうです。
しかもほぐそうとして自分で揉んでしまう人がよく居るそうなのですが、血栓がもしできていたら、それが肺とかに移動したら詰まって苦しくなったり危ないことにもなることがあるとのこと。
しかも同時に五十肩。これも治療始めました。

大事にはいたらなくてよかったけど、本当に、がんになるって、身体のあちこちをどんどん蝕まれていく恐ろしい病気なのだとつくづく感じました。。

次から次へとパパを悩ませる痛みや苦しみ(もちろん悲しみも、、)だけど、もう1年以上、よく耐えてきていると思います。
あちこちボロボロになりながらも、その度に修理して、メンテして、大事にしながら毎日つきあっていくんだね、人の身体って、とパパは言っていました。
私だったらとっくに気がおかしくなっているだろうなとビビりながら、頑張っているパパには本当に少しでも楽しい気分になってもらいたいなぁ、元気になってもらいたいなぁと願うばかりです。

結局まだ2日間しか会社へは行ってません。
それなのに、実はこの週末、たまたま金曜日にくる事になっていたばーちゃんを連れ、パパママと3人で韓国に行く事になっています。

お医者さんもびっくりですよ。
でももう、どこでも行きたいところに連れて行ってあげてください、なんでも好きな事やらせてあげてくださいと言われてます。

本当は私も一緒に行きたかったところ、パパの状態がわからなかったので前もって決めることができず、私は友達夫婦と韓国行きを決めていました。
急に、パパが元気そうだからと、私とほぼ同じ日程でパパ達も韓国行く事にしたというのです。
予約したときは確かに一時元気そうだったけど、今の状態では、普通に考えると行ける状態ではありません。
毎日状態が違うし、果たして行けるのかな。。

香港だって行ってきたし、そのミラクルっぷりで今回も無事韓国旅行を果たしてほしいものです。
そして現地で父の日と、その週にくるばーちゃんのバースデー、一緒にお祝いしたいです。






2011年4月27日水曜日

顔面が


たんこぶのような水ぶくれから始まったパパの頭痛は、早二日でこんなにもふくれあがってしまいました。。
もはやすっきりしてけっこうイケメンだった(と思ってる)パパの面影は、ありません。

先週末から痛みを訴えていて、日曜日にじんましんのようなものがおでこにでき始め、てっきり点滝の副作用かと思っていたら月曜日の病院でなんと帯状疱疹だと言われ、薬はもらったもののみるみる激しく腫れてきてしまったのです。

普通にしていても頑張っても右目は開きません><
おでこも鼻も、いつもより一回り大きくなってる。。
ママにメールもらってかなりびっくりして、すぐ電話してパパにかわってもらったら思いのほか元気そうな(といっても、、ですが)声を聞いて、思わずほっとして涙でちゃいましたよ。。
こんな状態でも笑って話してくれて、本当にすごいと思った。

髪の毛触れるだけでも悲鳴をあげてたのは、これほどの勢いで頭が腫れてきてたからなんだ、、

パパは以前も帯状疱疹になったことがあって、調べたら1回はなっても2回かかる人は5%以下だって!
でもどうやら、やはりというか、抗がん剤などで免疫が急激に下がると突然かかったり、経験済みでもまたなる事もあるそうです。
神経痛で、その痛みは相当なものだって、、、経験者は苦い顔して必ず言いますよね。


本当に大変な病気と闘っているんだな。。
私ならとっくに気がふれているかもしれない。
がん細胞ってのは、本当に本当にやっかいだ。


明日は1年半私のアシスタントとしてくれたAさんの最終日。
すごく悲しくて、寂しくて、夜は仕事上関係のあった女子で感謝の宴をわいわい過ごそうと楽しみにしてました。

でもパパの2回目の点滴の日でもある。
こんな状態で、点滴自体も続行できるかどうか不安です。
昼間抜け出して病院行かせてもらおう。。


2011年4月24日日曜日

頭痛

パパの頭痛が治まらない。
左側は平気と昨日まで言ってたのに今日は頭全体が、触るだけで悲鳴をあげるほど、、
医者はバファリンでいいと言うけれど絶対気休めだ。

これが実際のアバスチンの副作用なんだなって思うけど、なおさら、治験中は本当に食塩水だったんだって知らしめられているようで悔しい。

何もしてあげられないのがもどかしい、、


ママ、59歳の誕生日!

今日4月23日はママの59歳の誕生日でした!
パチパチパチ。。!


弟嫁が舞浜のヒルトンでランチを予約してくれて、弟夫婦と私と両親のいつもの5人で中華のブッフェへ。(本当は別のレストランへ行くはずが、ホテルは営業していてもしまっているお店が多く、、)
お花くれたり写真撮ってくれたりケーキまで手配してくれて、さんざんおしゃべりして、最初はきつそうだったパパもどんどん笑顔が増えて、楽しい時間を過ごせました☆

ホテル内で結婚式の聖歌が流れてきた時、私たちの結婚式ではほんとにほっとしたと、、思い出すと泣けてくると言って涙ぐんでいたのを見て、去年バタバタなまま始まって終わっていたので、そんな風に思ってたんだなって、私も思わず涙ぐんじゃいました。。

最近のパパは、一見見た感じは元気そうなのだけど、腫瘍はMRI撮る度に広がってしまっているし、暑い、寒いなどの五感もまた敏感になってきていたり、足があがらずお風呂に一人で入るのが困難になってきたりとパパの状態も急激に悪化してきていて、かなり心配な状態ではあるんだ。。

今まで頭の痛みは、放射線終わってからはあまり言わなくなっていたんだけど、つい数日前からは痛みを訴えだすようになり、、
脳天を突き刺すような、ぴきーっとした痛みが走ると言い出しました。手術をした側の、おでこですら皮膚を触っても痛く、今日なんて、みるみるタンコブのようなじんましんの固まりのようなものも浮かんできました。


まるで、手術後ひどかった1年前を彷彿とさせ、一昨日、昨日とママがメールで不安を訴えてきていたので心配でした。
きっと、、抗がん剤の副作用なんだと思います、、
なんとかしてあげたくてもできないもどかしさを抱えながら、とにかく不快にならない程度に気を紛らわせていたわってあげようと努めてます。
やはり笑っている間は忘れていられますもんね!

でも今月はなんと、そんな状態でもかなり行動したんです!!これが、実に結構な活動。


4/3の私の結納一周年記念日には、去年は来れなかったパパのリベンジを果たすべく、ママの誕生日を兼ねてとうふ屋うかいでお祝いしました。そこにTのご家族もJoinしてくれて、立派な結納リベンジが果たせました!お花屋さんに花束を届けてもらって、皆にお祝いしてもらえて本当に良かった^^
(私は去年と同じワンピースを来て、去年と同じ角度での写真を撮りました!パパが居なかった去年の写真と並べると、感慨深いものがあるね。。)

すぐ後の8日には、ママとパパが二人で念願の香港、それも憧れのPenninsulaへ!
全く欲のないパパが、出張で4回も行ったにも関わらず飲茶も食べてないし観光も一切できなかったからちょっと未練があるな、飲茶食べたいな、と言ったのを聞いてからはママが、
「何が何でも連れて行く!」
と即効手配。(ママの得意分野 ^^)

実際は一日の半分は寝ているような状態だったそうで、ママは置いて出かける気にもなれずじとっと部屋にいたそうだけど、それでもご飯はたくさん、二人で美味しく食べて、一度渡れば3年寿命が延びるという長寿橋を2回も渡り、途中からは車いす状態になりながらも無事に帰ってきてくれました。

帰ってきてすぐ、14日、やっと許可がおりたアバスチン(実際は香港行く直前におりたので、タイミングが悪く後回しに、、)の点滴!
治験の時と同じように、初回は90分の点滴です。
今度は間違いなくアバスチンが入っている。受けている時の感覚は特に前と変わらなかったそうだけど、私たちはこれにすごく期待している!!

そしてなんと、パパの会社の部長さんが家まで来てくださって、やっぱり仕事がしたいんだというパパに真剣に、かつユーモアも交えながら対応してくれて、なんと28日からリハビリ出社することになったのです!!
しかも、ママの席まで用意してくれると!! 
ママは、それには戸惑っちゃったみたいだけど(笑)初日は、とりあえず10時から11時の1時間だけとなりました。
なんて素敵な部長、、しかも起き上がれずに布団に横になったままのパパと話しながらそのうち部長まで横になって話し続けていたというから、なんて微笑ましい光景だろうと感動さえ覚えましたよ。
ほんとに良き上司に恵まれて良かった!!感謝感謝です。


そしてそして、今日は誕生日当日なので、改めてお祝いランチ、帰ってからもいっぱいおしゃべりして、一日のほとんどを寝るようになっていたパパが、珍しくほとんど起きていて今日は元気だねぇ!とママがびっくりしたほどでした。
やっぱり私や弟がいたり、いつもと違う刺激を受けるのが良いのだねと。もっともっと連れ出さなきゃ!
仕事復帰が決まった事でも元気が出たんでしょうね。


一年前の写真と比べると、身体も喋りも髪の毛も、本当に良くなりました。
前は髪の毛が抜け、あばら骨が飛び出て、ひどい真っ赤なじんましんのようなものが身体中を覆い、頭には黄色い粘着質のものがこびりついて常に痛み、かゆみを訴えていました。
口の中は腫れ、食べ物も少しの刺激もダメでほとんど食べれず激やせしてしまって精神的にもかなりやられていました。
今までに飲んできたテモダールの薬の袋を全部じゃないとはいえすごいたくさんとってあって、今までこんなに飲んできたんだねぇ、ほんとによく頑張ってきたねぇ、とパパの気持ちを思うと感動せずにはいられません。


その頃から比べると、今の状態はどんなに幸せなことか。。
性格や喋りに変化は見られるものの、大事なパパであることは変わりありません。

今回、大震災で、本当に突然命を奪われた方々やその家族がたくさんいることを思うと、、愛しい家族の時間をこれまで以上にたくさん過ごせていることにむしろ感謝すべきですね。


来年のママの60歳の誕生日もお祝いしよう!というパパの言葉を聞いて涙ぐんでしまうママ。
医者には、あと1、2ヶ月かもしれないと言われてしまったのだもんね、、
今の状態で、香港行けたことが奇跡なんですと、、



これを書いているのは夜中。(というか書いていると夜中になってしまう、、)

ママが寝る時、すでに寝息をたてているパパを心配そうにしばらく覗き込んで、寄り添うようにして眠りについているのを見て、本当に本当に二人を助けてほしい、と改めて神様に祈りました。。
パパは本当に誰よりも頑張っています。パパの頑張りを無駄にしないで下さい。お願いします。


*そうそう、ランチの後、弟夫婦はせっかく近いのでとあの嵐のような強風、雨の中、ディズニーランドへ。友達から聞いてはいたけど、本当に激空きで、ほとんどのアトラクションが0〜5分で乗れたそう!!
これで晴れていればこんなに楽しいディズニーはないとまで。
パパはどうしても乗り気じゃないみたいで、もったいないけど。。。

そうだ、GW中の私とTの結婚記念日にはディズニーに行こうかな^^


2011年4月23日土曜日

大きくなった腫瘍、そして史上最悪のトリプル災害

なんと前回のブログから4ヵ月も経ってしまいました。。

その間、パパの誕生日もあったし、年末年始もあったし、、いろいろありました。
忙しさに追われ、疲れていると余計疲れるという悪循環も発生、ブログアップする気力すらなく。。
あげく、つい1ヶ月前には世界でもまれに見る最悪な東日本大震災が、、。

下記、途中まで書いていたもののずっとドラフト状態だったものを、時間軸はおかしいですがとりあえずアップしました。

↓↓↓

その時私は東京のオフィスにいました。
ざわめきが起こり、びっくりして外へ皆避難しました。

今までに経験したことのない大きな地震。2回も外に避難したし、
結構長いこと外にいましたが、中に戻るとそれほどの被害はありません。
部長の小さな本棚が倒れていたくらい。
その時はまだ、あんなに大きな震災だったなんて思いもしなかったな、、
あちこちで被害が大きくなって、いろんな情報が入ってくるにつれ、不安は少しずつ大きく、、。

携帯や電話が混雑して繋がらなくなった中、Tがすぐにtwitterで連絡をくれ、
その後交通手段が全部断たれてる、迎えに行くから動かないで待ってて!と。
歩きやすい靴と上着、手袋を持って、チャリで迎えにきてくれました。
そして二人で歩いて帰りました。
車で旦那さんが迎えにきた子は、道路が混んでたのでなんと会社に着いたのが夜の9時とかだったそう。
3、4時間歩いて帰った方が多い中非常に恐縮ですが、3、40分で地元に着きました。まだまだ元気です。
このときもまだ、ニュースで津波の映像すら見ていませんでした。
ご飯を食べに入ったお店でついてたTVを見て唖然。。
まるで911をTVで見たときのような、映画を見ているかのような実感のなさ。
リアルだとは思えない光景でしたね。。

その夜はさすがに、非常袋を玄関に用意して、玄関のドアは開け、外に出れる格好でロングダウンを着込んで、TVの前で床に転がって寝たのでほとんど寝れなかったです。。
ガスも止まってたのでシャワーも浴びれずだし。(これは翌日、facebookを見ていたら同じような人がいて、振動を感知して自動で止まったものだったということがわかり、無事に開栓できました。。)



1週間が経った東京では、すでに大分落ち着いていたと思います。
計画停電にも余震にも備えつつ、さすが秩序のある日本人というか、すでに元の生活に皆戻りつつありました。
原発には世界が恐怖におののいてますが、日本はあくまで冷静に、そして必死に対処しています。情報開示が遅いと非難もされましたが、アメリカや特にイギリスの報道のように騒ぎ立てて下手に恐怖をあおってパニックを引き起こしてはいけないと、必死に冷静を保ちつつ対処していこうとしていたのは、なんとも日本人らしい部分です。
買い占め騒動はいただけなかったですけどね、、


枝野官房長官は常に国民に報告して、不眠不休な日々。
アメリカで、政界のジャックバウアーだとも言われました。
ジャックを生んだアメリカに言わせるなんて、すごい。

PrayforjapanというTwitterでの感動するつぶやきを集めたサイトもでき、混乱が起きないどころか助け合う日本人を賞賛する海外のニュースだけでなく実際海外の取引先からも日本人のモラルの高さを褒めたたえるメッセージを多数いただき、久しぶりに、、日本人を誇りに思ったのでした。
震災の被害は計り知れないけど、日本は完全に一つになったと感じました。。


ずっと流れる震災の状況や増え続ける死者のニュースを見て、パパは日記に、
なんともひどいことだ、でもこうやって増えすぎた地球上の人口が淘汰され、自分もその一人なのだ、
と書いていました。
パパは本当に、、自分の状態について、パニックにもならず、穏やかに受け入れています。私だったらと思うと、絶対にパニックに陥って自分の運命を嘆いてると思う。パパは本当にすごいよ。。


地震からちょうど一週間がたった18日の金曜日、家族でがんセンターへ呼び出されていました。前月、腫瘍の再発が認められたため今後の治療方法をどうするか、という相談です。
14日にまた撮ったMRIの結果でもやはり、拡大してしまっていました。
11時半に来いと言われていたのに、待合室でひたすら待つこと3時間半、、
途中、パパは辛くなって横になってしまいました。当然です。

震災の影響や計画停電で医療界も大変な騒ぎらしく、パパの担当医N先生は権威でもあるので急きょ会議に呼び出されていて不在、大事な話なのに、話が直接できませんでした。。
でも一緒にチームで診てくれているO先生が、一生懸命対応してくれました。

テモダールだけの治療で再発してしまったので、同じ治療法では効果がなくなってきたと考えるのが普通です。次の治療法について、私たちには3つの選択肢が与えられました。

①テモダール+プロカルバジン
②点滴(カルボプラチン)
③アバスチン

アバスチンは、日本での認証に向け進んでいるところではあるけれども、まだまだ承認には時間がかかるものです。それを、このがんセンターでは、特別審査を通れば患者が使用できるように、頑張って進めてきたというのです。国立であるがんセンターならではだそうです。
やはりこの中で一番強い薬であるのはアバスチンとのこと。
その割に副作用も比較的弱い方である。
ただし、保険適用でないため、ものすごく費用がかかる。
そして気になる点としては、これまでのアバスチンを使った患者さんにたまに見られる、体力が落ちたり症状が少し悪化したなどで薬を中断した場合の予後が悪化するペースが早い、ということが懸念事項だとも聞きました。

ど素人でお金もない私たちはさぁ、どれにする、と言われても途方に暮れるだけ。

先生に、どうするのが一番良いか聞いても、きっと思うところはあるのでしょうが、効果がはっきり出るものでもないため、断言はしませんし、曖昧な言い方に終止します。
お昼もまだだったので、途中、いったんランチ休憩をして自分たちだけで話し合い、その後一時間後にまた先生と話して決断をする、ということになりました。

遅いランチの間、あーでもない、こーでもないといいながら相談してましたが、やはり決まりません。パパは、たまに口をはさんで、高いお金を出す必要はない、ない、とひとしきり言って、あとは任せた、とまた話し合いから抜けます。
先生と話している間も、”もう僕はわからないから家族に任せます・・” と完全に放棄です。
放棄というか、パパは元々無理をしない主義だし、あきらめも早い性格。
ママはあきらめないので、必死に先生にいろいろ質問するのだけどなにせ難しい問題なので判断できずに泣きじゃくる。
そんなママをパパがよしよし、すぐ泣くんだから、、となだめていました。。
今ではよく見る光景です。

私と弟で、曖昧な先生の意見を追求しまくって、なんとか決断に向かいました。

治療というのは通常、強い薬から試して早めに治療を終わらせることを目標としている。
アバスチンが他の抗がん剤と比べて効果があるといっても平均3、4ヶ月程延命効果があるという程度だということ。
なんせ高額のため、一般の人はなかなか続けられないのが普通だということ。

などなど、、これらをふまえ、私たちがなんとか出した結論は、普通はできないのだけどやれるものならやりたい治療法ができるというチャンスがあるのなら、やらずして後悔はしたくない。
お金は二人で協力して、無理はせずに、できるところまで続ける。

アバスチンを、やろう。

休憩前と合わせて約4、5時間が経過していました。
あとは、申請をしてもらって、結果まで約1週間待つことに。

すっかり疲れて、帰ったとたんにパパはすぐに倒れ込むように寝てしまいました。
その日は計画停電が実施され、私も弟もすぐに寝ちゃいました。まだ19時だったのに!
相当疲れてたね、この日は、、。
それでもママだけは寝れずに起きていたそう。

ママは寝れないことがほんとに多く、身体が心配。
私も不眠症の気があるので辛いのはよく知っています。日中は昼寝してるらしいのでまだいいのかなと思うけど。。

本当はこの日からテモダールを始める周期だったのに変更したために治療がいったん中断になったので、早く申請がおりてくれることを願います。